48時間 ~遠い国の男の死~
その父上は老衰で数カ月前から入院しており、ここのところ話しても反応が途切れ途切れだったらしい。先日知人が帰省した際も、知人をもはや自分の子供だと認識することもなかったそうな。
だから知人はすでに覚悟が出来ていて、とんぼ返りすることも想定内のようだった。
「身体は車いす上でかろうじて動くけど、意識はほとんどない。あのままでは生きている意味がない。」と、そういや知人は以前漏らしていた。早く安らかに眠りにつく方が、父にも家族にもベターだろうと。
知人は、おととい「あと48時間以内に逝くであろう」との医師の予想を自国の家族から受けた。そして父上は本当に48時間のうちに逝ってしまった。
私にとっては、その知人自体長い付き合いでもないし、ましてやその父上なぞ、会ったこともない遠い国の誰かなだけだ。しかしおととい「父が48時間以内にこの世を去る」と聞かされてからの2日間、私は何だかずっと、得も言われぬ不安とともに引っかかっていた。
実は先週、その知人が用事で自国から私にメールをくれた時に、たまたま家族と食事している写真もつけてくれたから、私もその父上を写真で見ていた。だからショックを受けたことは確かだ。だって、それからまさか1週間後に亡くなるなんて。
もうひとつは、日本にいる自分の父と重なってしまったこと。私の父は今でこそ元気だが、ここ数年の間いくつかの大病を患い、一旦は記憶を失ったり、意識が飛んだりしたことがあったから。
海外にいる者は皆、親の元にすぐに行けない不安ともどかしさを持っている。帰省するたび、「次の帰省までに何事も起こりませんように」と願う。自国に親を残す今回の知人もまさに同じ境遇だから、それもあって心情が重なった。
また、私はこちらで動植物と触れ合うようになってから、生命というもの、特に生まれたばかりのピカピカの新しいエネルギーをぐっと近くで感じてきた。それだけに、今回その対極、終焉を象徴する知人の父上から、改めて「今」という瞬間の儚さ、尊さを実感、、、。
あと48時間でこの世を去る命―。
その具体的な数字によって、私は動揺した。胸が締め付けられ、涙さえ滲み、気づいたら、その遠い国で、今まさにあちら側へ旅立とうとしている見知らぬ男のために、祈らずにいられなかった。
肉体の死は誰にでもやってくることだから、悲しさというのではない。それよりもあるのは混乱だった。
今はこの世にまだ生きている、でも刻々と過ぎるこの瞬間のうち、どこかの時点であちら側に行ってしまう。こちらとあちらの違いは一体なんなんだろう?それがうまく理解出来ない。
カナダに来ていなければ会わなかったであろう知人。その知人が帰省していなければ見なかったであろう父上の写真。亡くなる前のほんの数日間だけ知ってしまった遠い国の男。
そんな男のために想いを馳せ、祈る私。これも一種の縁なのだろうか? まるで私は彼に一度会ったかのような錯覚を覚える。
もし彼がまだこのへんに漂っているのなら、ぜひ尋ねてみたいものだ。なぜあなたは死の直前に私に知られたのか?なぜ私はあなたのために祈らずにいられないのか?あなたは一体これからどこに行くのか?
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