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リセット

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おおお、なんと前回のブログ更新からなんと 8 ヶ月!ニューヨーク時代含め、継続中のブログでこんなに間をあけるのは初めて。「コロナで何かあったか?」「もうブログは止めたか?」と思われても仕方ないが、単に頭がブログに向かわずにいただけだ。 冬でも日だまりなら花は咲く それはなぜか? ひとつは、ツイッターや 各種アプリからの、短くスピードのある情報に慣れてしまい、 ブログや一般記事が重くもどかしく感じるようになってしまったこと。これはスマホによる一種の中毒・麻痺のようなもの。 それから、仕事や生活でなんだかんだ細切れに用事が入ってくるから常に落ち着かない状態であったこと。 木の実は自然のクリスマス・オーナメント しかし、ブログから遠ざかったメインの理由は、今年は意を決して「転換」「リセット」の足掛かりを作ることに重きを置いていたためだ。 ずっとワーカホリックにやってきた生活を改めたいという希望の下、年初からタイミングを見計らっていたが、深く関わってきた仕事はそう簡単に抜けられず。 しかしずるずるするのも嫌で、この秋についにそれまでの会社を退職。 秋の終わりに区切りをつけた 今は前職をフォローアップしながら求職中なものの、 12 月はホリデーモードでどうせ物事は進まないので、私も小休止。いままで残業の日々だったから、正直、しばらくはゆっくりしたり、たまった雑務を片付けたい。 ホリデーシーズンはまったりと もちろん経済的に限度があるから年明けからエンジンかけていかないとだけど。コロナの状況悪化で求人市場にも影響出てるし。 いずれにせよ、次はもう少しライフ&ワークのバランスが取れる仕事を望んでいる。今までのキャリアもあまり気にしない。収入は若干落ちるかもしれないけど、日々気持ちよく過ごせる方に重きを置きたい。 今年はそのために踏み出す年であったのだ。まずは実行に移した私に「お疲れ様」! 新年の幕開けとともに、また新しい人生の章に入る。なんだかんだいって数年おきに生活をリセットしている私だけど、常に心に従おうとしている部分は一貫している。(←牡羊座は自己肯定・都合いい解釈が大得意(笑)) これを読む皆様もどうぞよいお年を! 最近またコロナで入場制限。カフェはもうしばらくお預け。

カフェに行きたいだけなのに

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数日前、私の街は結構な雪に見舞われた。 4 月に雪が降るのは珍しくなく、むしろその前に 20 ℃近くの日が続いた方がおかしかった。 その時にいつもより早く咲き始めた春の花たち、ぶり返したマイナス気温と雪で凍ってしまい、騙された気分?いつもは5月に咲く桜もすでに咲き始めていたのに。。。 それでもちょっと陽射しが戻ったら、みるみるリカバーしていったから頼もしい。氷点下でも根だけは大地のぬくもりをキープしていただろう。一度曲がったチューリップたちもまたまっすぐになった。 さて、私の住むカナダ・オンタリオ州は世界各地と同様、 3 月からまたコロナウィルス感染者数が増加してロックダウン。その後知事による在宅命令も出て、私も在宅勤務へ切り替わった。 春先はどちらにせよ時間があるときは土いじりをしようと思っていたからほとんどのことは困らないのだが、ふと恋しいな、と思うのはカフェ時間。 トロント時代は何かにつけカフェに行っていた。本を読んだり、スケジュールを綿密に立てたり、 To Do を整理したり、新しいスイーツを試したり、他のお客さんを眺めたり。とにかく一人のカフェ時間を楽しんでいた。 今いる街も何件かいいカフェがあるのだが、今はテイクアウトのみか休業状態。 このコロナ禍で何もパーティーしようってわけじゃない。日本に行くことも我慢している。ただただ、ほんのちょっとカフェでたたずみたいだけなのに。それすらもできないなんて、、、。 一応ワクチン接種が進んでいるから、もう少しすればマシになるかな。しかし、 1 ウィルスから二種?数種?に変異するウィルスも州内で見つかっているから、さらに悪化するかな。 しばらくは土いじりの合間に、春のエネルギーで膨らんできた木の芽や、すうーっと静かに伸びる若葉を見ながらコーヒーを飲むことになる。それも決して悪くないけれど。 今こうして健康で過ごせていることだけでも幸運と思わないといけないのだろうな、、、。 この先がどうなるか、誰にもわからない 2021 年の春。そういやそんな中、 50 歳を迎えた。  

新しい夢

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30 代の頃 ---- 。新しい世界へ飛び出して、いろんな人間や価値観にふれて、外から多くの刺激を受けた頃、自分の内からも「あれをやりたい」「自分はこうなりたい」と、向上心や情熱がどんどん湧いて出てきていた。 「人に対してこうありたい」という理想もあり、さらに他者のふるまいや言動から「これだ」と思ったことは、実践しようとしていた。 40 代になって――。仕事や目の前の現実の生活に浸かって、自分の想いを巡らす時間が減った。不規則で限定された生活をしたせいと、おそらく年齢的なこともあって?物事を進めるペースが緩み、行動範囲や交際範囲が徐々に狭まった。 面白そうなこと片っ端から手を付けた前の自分と違い、大事なことだけに絞って選択するようになった。壮大な自然に触れるとともに、動物や植物の世界に新たに興味が湧いてきた。 50 代直前の今 --- 。仕事となんだかんだの雑務に追われ、日常生活の中で刺激を受けることは少なくなった。既にいろんな知識と経験があって、感激する心がしぼんでいるのかも。 仕事上のスキルアップだの対人関係での努力だの、社会の中の自分を磨く意欲はいつのまにかどこかに行ってしまい、最近幸せを感じることといったら、植物の世話をしたり、スイーツ作ったり、家事・雑務を効率よくこなしたときだ。日々の小さな自己満足。 気力、体力、集中力、記憶力が落ち、関節痛だのしわやたるみだの、生理不順だの、あちこち「老い」のサインも出てきている。今の世の中 50 代なんてまだ全然若いけど、時の早さと心身の変化は著しい。 いつの間にこんな歳になったんだろう?ついこの前まで私は中学生だった気がするんだが。(きっと同じこと 60 歳になっても、 70 歳になっても思うのだろうな。) とはいえ、決してネガティブになっているわけでも年齢による制限をするわけでもない。 年齢のキリがいいこの機会に自分を客観的に見てみただけ。 今の自分は、よりマイペースになり、より普遍的・本質的なものを求めるようになり、社会のルールより自然界のルールに近くありたいと思うようになった。 こんな考えそのものが、まさに着々と人生の終わりに向かっていることなのかも。人は皆自然に還っていくのだろうから。 50 代からはもっとその傾向が強まるかも。それはそれで新しい世界が広がるようで、

気づいたら北米歴15年

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そうなのだ。気づいたら最近をもってカナダ滞在歴が 7 年半となり、ニューヨークの 7 年半とタイになった。アメリカとカナダの間に 2 年近く日本にいたものの、北米歴は通算で 15 年となった。 多くの人が集まるコロンバス・サークル( NY ) おおお、そんなになるかあ。過ぎて見ればホント、あっという間。 ニューヨークに行く前、私は最初に就職した会社に 14 年近くいたから、長いと思っていたその期間をも越えてしまったのた。早い!もっとも、 1 社に留まっていた期間と、変化の激しかった北米滞在では経験が全く違うけど。 ニューヨークの 7 年半とカナダの 7 年半も全然違う。 ニューヨークは初海外で英語も出来ず、世界のことも殆ど知らない状態で始まり、何もかもが目新しく刺激的だった。周囲の環境が新しいだけでなく、留学・海外就職と、自分の能力にチャレンジしつつ、新しい自分を発見する期間でもあった。 金融街で働いていた頃の夜景 カナダは二度目の海外、しかも生活様式の似た北米だから、当初の驚きはない。自分が「海外にいる」という意識すら薄れ、かつて特別でときめいていた日々が、ごく日常となった。カナダという国がややゆったりしていて、刺激よりも安心を感じるせいもある。 ただしカナダの自然の美しさにはときめく いずれ 1 5 年も日本を離れ、自分の中で日本と北米の感覚が交差している。どちらかというと日本に帰ったとき違和感を覚える方が多くなってきた。 とはいえ、英語はいつまでたっても流暢になれず、こちらの資源の無駄遣いなぞを見ると、日本の『もったいない』感覚がうずくこともしばしばあるけど。 ただ、そうやって文化の違いを比較すること自体、以前ほどじゃなくなってきている。今は生活スタイルがよりシンプルになって、生きるための基本的な部分で快適な状態を求めているから。 例えば美味しい野菜を食べるとか、風呂やヨガでリラックスするとか、植物の世話をするとか。それらは、どの国にいるかは関係ないことだ。 夏恒例となっている野菜栽培 それに、今は世界中の情報が一瞬で入ってくるし、こちらからも自由に発信できるから、ますます自分の居場所を意識することが少なくなった。 ただ、それはあくまでも今の自分の状態で、かつての思い入れのある場所を思うとき、それはやはり特別な感情が湧く

Year of NO

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ロックダウンと雪に閉ざされた新年。こちらの正月はクリスマスほどの盛り上がりはないから、どちらにせよ普通の週末とあまり変わらな かった 。暮れは 31 日の夕方まで通常勤務だったし。 それでも新年の抱負の実行とばかりに、 3 日坊主になる可能性を知りながらもヨガのオンラインコースを始めたり、クリスマスにいただいた本で読書も開始したり。(お供はクリスマスクッキー!) そして、最近はあまり見なくなった占いなぞ久々に読みつつ、今年はどういう年にしようかな、などと思いも巡らせた。 占いによると、私は今年から新しい世界に向かって準備を進めていくそうだ。「やはり」と思った私。だってそれを読む前からすでに私の中でじわじわと起きていることだったから。 今年は 4 月で 50 歳になる 。 心身ともに健康で自由に動ける期間を 75 歳までとすると、 50 歳は人生 3 分の2の折り返し。そう思ったら一つの方向性が見えてきた。 おそらくこの年齢くらいなら、誰もが同じところに行き着くのかもしれないが、それは既存の概念にとらわれず、「より心のままに」「より本来の自分に沿って」日々を送るということ。 物心ついた時から私たちはすでに現代社会の仕組みに組み込まれていて、その中で「良し」とされる生き方やゴールを目指して走り続けている。「この年代なら」「この経歴なら」「女性なら」など、無意識のうちに社会や周囲の期待に応えているのだ。 しかし数年前から私は、人間社会はある一つの小さな世界でしかないという認識が強くなり、そこにだけ合わせて生きることは、自分を枠にはめているような、ごく窮屈なことだと思えてきていた。 それはカナダに来てから動植物や自然の美しさ・偉大さ、科学、はたまた菌の世界にまで触れたことが大きい。 カナダの広い空と迫力の雲 以前興味があって深く関わっていた社会問題の解決を目指す NPO 活動なども、ちょっと見方が変わって距離を置くようになった。 そもそも社会問題自体、狭い人間社会の中だけで起きている、あるいは人間社会だからこそ起きていることが多く、それを解決しようとしても、何かこう、、、限定的な気がして。 人間は広い広い宇宙の中のいち生物でしかないという視点の下では、人間社会の中で起きている争いや偏見はごく小さなこと。だから、それで苦しんでいる人がいると思う