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9月, 2016の投稿を表示しています

働き方いろいろ

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私はこれまで一貫して事務系の仕事(オフィスワーク)をやってきているが、働き方はその時々で違っていた。 日本の会社では、ラッシュアワーの通勤、定時に始まる朝礼・終礼、つきあい残業、仕事関係の飲み等々、「みんなで一緒に行動」というベースが常にあった。 カフェって結構仕事はかどる アメリカの会社では、仕事の範囲はきっちり決められ、出退社や休憩時間は「目安」程度。だからある程度の個人のペースが許された。残業は会社にとってコスト高&管理者も担当者も仕事をマネージ出来ていないということになっちゃうから、基本無し。 そしてカナダの今は、勤務時間や休暇は一切設定されておらず、やるべき仕事をやるべき時までに自分で組み立てて実行すれば OK というスタイル。例えば、 16 時間働く日もあれば 3 時間やってやめる日もある。 時間だけでなく、場所も問わない。会社のオフィスもあるけど、ミーティングでも無ければ、ホームオフィスや北の滞在先で自宅勤務的に仕事することが多い。 気分転換兼ねて時々はカフェでも。日本の実家に帰省した時も、休暇でなく、あくまでも仕事を継続しながら。 こんなスタイルで出来るのも PC やスマホ、インターネットがあるからだろう。実家で携帯で仕事のメールに返信してたら、父に「そんなんで仕事してるのか!」と驚かれた。父の世代は、事務所に行って 9 時- 5 時いてこそ「仕事」だから。 しかし、時間も場所も問わない働き方は、いい点、難しい点どちらもある。 フレキシブルだけどオンとオフの区別をつけづらい。ずっと自由でいる気もするが、同時に 24 時間ずっと働いているような気もする。(きっと個人事業主・フリーランスもこんな感じ?) 今はルーチンワークの他に、日本も交えたプロジェクトのプラニングに関わっているので、毎日違うスケジュール。指示を出すボス自身も模索しながらだし、日本とは時差もあるので、その日になって仕事の中身が変わることもしばしば。 料理はもっぱら和食の常備菜 だから、時間を自由に使えるとはいえ、仕事のイレギュラーさで実質制約が生じちゃってる。自由と制約が、ある時点でスパッと切り替わるのでなく、常に「重なって」いるのだ。 これでは、上手く時間を使わないと個人の時間が

YOU'VE GOT A FRIEND

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今から2年ちょっと前、カナダでの最初の半年の滞在を終えたあと、ビザの関係で数カ月日本で待機していた期間があった。 その間は新潟の実家で遠隔勤務をしながら過ごしていたのだが、まわりは田畑と山ばかり。 仕事の合間の気分転換も、もっぱらコーヒー持って庭に出るくらい。 しかし、ちょうどその時は、冬から春へ、そして夏に差し掛かる季節。植物たちが一斉に芽吹く素晴らしい時期だ。 そんな時に実家に張り付けで居たのはむしろグッドタイミングだった。 ふきのとうやツクシから始まる滋養たっぷりの山菜たち! 圧倒的な美しさを誇る桜! 雨の度にすくすく育った柔らかなタケノコ! つやっつやに輝く木々の若芽! それらの「新しいエネルギー」と来たらとにかく半端ない!見ているこっちにビシバシ飛んでくる。 仕事の休憩時に庭で雑草を取ったりもしたが、その雑草からも、強い生命力を指先に直に感じた。 そういった成長のエネルギーとは別に、植物がそもそも備え持つ機能や構造もやけに心に響いた。 例えば、花ひとつにとっても、その鮮やかな色彩、模様、花びらの形―。何をどうやってこのように美しいパターンが創られたものか! そしてそれが次の代へとキチンと受け継がれていく不思議、、、。 母とプランターに植えたキュウリも、見事に機能的に支柱に絡みついていった。そこには人間や動物と同じような「判断」や「意志」が備わっているように見えた。 * 幼少期を過ごし、大人になってからもたまには帰っていた同じ家、同じ町ではあるが、その春に限って特別だった。特別に植物のエネルギーを感じ、特別に植物が高等な創造物だとの実感があった。なぜだろう? 幼少期も春はワクワクしたものだが、このような感じ方ではなかった。当時はたくさんの自然に囲まれた環境が当たり前過ぎたのかも? 一度そんな環境を離れ、都会でいろいろな経験をしたあと、改めて自然と向き合ったその春は、ちょっと大げさかもしれないけれど、まるで未知との遭遇のようだった。 その感覚 ― 言ってみれば「植物との新しい関係」は、カナダに戻ってからも続いた。私の目はやけに草花や木々に惹かれ、同じ生き物としてより近い存在に感じるようになっていた。 奇遇にも、戻ってすぐに

初の車生活

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以前アメリカに住んでいたので、カナダに来て生活文化的に真新しいことはそう多くないのだが、たまたま今の仕事の都合で、これまでと違うライフスタイルで過ごしている。 その一つが車の運転。これまで都会で暮らしていたので、車は不要であったのと、個人的に運転は怖くて、私は車の免許すら持っていなかった。 ようやく 40 歳の時に ID 代わりに実家近くで取ったが、すぐ東京に越したので運転しないままでいた。 ところが、広大なカナダに来たら運転は必須。生活・仕事の場はトロント市街地でなく郊外なので、どこに行くにも車がいる。とにかく広い。コーナーストア(日本で言う近所のコンビニ的な店)でさえ、徒歩では遠い。そんなわけで私の人生初の車生活が始まった。 ドラッグストアのドライブスルー ここは、冬場はマイナス二桁が日常なので、そういう意味でも車が要るのだろう。 ファストフードにドライブスルーがあるのは今や当たり前だが、こちらでは銀行( ATM )や薬局(処方箋授受)などにもドライブスルーがある。 それらを設置できる広い土地があり、車社会であることに加え、寒い時に車から降りずに済むからかもしれない。そういや多くの車のシートにはヒーター入っているもんね。 カナダに来てから、途中長く日本滞在したり冬道運転を避けていたりで、運転歴は通算でやっと 2 年くらいかな。最初は怖かったけど、やっと最近「楽しいかも?」と思えるようになってきた。 また、車利用のメリットは頭でわかっていたが、実際そういう生活をしてみると、その便利さを実感。荷物をたくさん運べることはもちろん、私はよく犬の浪人を乗せて出かけるし、天気が悪い時の外出は車があると助かる。 意外なポイントで気づいたのは、運転中は一人の空間を楽しめるということ。考え事をしたり、好きな音楽かけたり、最近はちょっと余裕出来てきて、信号待ちの時おやつ食べたり写真撮ったり。 田舎に行けば、野に咲く花や野生の果物を発見して停まったり、美しい夕日や紅葉や雲のために停まったり。自由に動けるという解放感は大きなメリット。 そうやって楽しめているのも、今のところ、郊外・田舎限定で運転しているからだろう。私の運転にはまだ課題があって、それを今から少しずつ克服していくところだ。

擬似ママ体験、そして種(しゅ)を越えて

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おととしの終わりごろから私の生活を一変させた男がいる。 それは、、、一匹の秋田犬! 厳密に言うとボス家族の犬だが、諸事情で生後二カ月でもらわれてきた時から、ほぼ私が世話をしている。 名前は「浪人(ろうにん)」。時代劇や日本文化が好きなボスの息子がつけた。 浪人って人の名前じゃないんだけど、、、ま、そこは流して(笑) 浪人が赤ちゃんの時は本当に大変だった。 昼夜問わず数時間おきに排泄するしお腹空かせるし、伸びる歯がかゆくて何でも噛んだし、排泄訓練がまだの時は家の中でやってしまい、掃除洗濯の繰り返し。 しつけに散歩にお遊び。車で一緒に出掛けるときの注意諸々、とキリがない。 その合間に仕事をしていたわけだが、人間の子供を持つお母さんの苦労が少しわかった。 自分が小学生の時、子犬をもらって飼ったことはあったが、しょせん自分も子供、結局世話をしていたのは母だ。だから今回初めて自分がキチンとお世話をしただけに、その大変さを実感。 擬似ママ体験は、そういう物理的な大変さだけではない。 私自身子供はいないので、これまで自分の中に直接「母性」を感じたことは皆無に近かったが、浪人によって、私のどこかに眠る母性的感覚が呼び起された気がする。 それは、、、私が最も幸せを感じるのは浪人の次の3つを見た時だから。 1)食事をバクバク食べる&水をゴクゴク飲む姿 2)見事なウンチ。 3)スヤスヤとピースフルに眠っている姿。 そう、生物として一番基本的な「生命維持行為」が順調に行われているのを感じた時、私は安堵と喜びでいっぱい。逆にご飯を残したりウンチをしない日は不安になる。 「とにかく健康に育ってほしい」 何よりもそのことを切に願うのは、人間の子供に対する気持ちと同じであろう。 そうそう、私が大好きだったアメリカのドラマ「 Mad Men 」でこういうエピソードがあった。 主人公のドンが、事情があって子供を捨てて田舎から出てきたウェイトレスの女性に惹かれ、関係を持つ。その女性もドンを受け入れ、楽しんでいたかに見えたが、ドンの自宅で過ごした翌朝、女性は泣いていた。それは、ドンと楽しんでいる間、子供のことを忘れてしまっていたから。一瞬でも子供のことを忘れ