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2016 to 2017:意識のシャッフル (2) ~Music is Back!~

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今年は「 2016 」という数字に慣れないうちに終わりを迎えるような、不思議な感覚もある年の瀬。元々が自分向けのこのブログだが、2016年 最終日は、 特に 自分のために、1年を振り返った記録をしておこう。 まず、今年を振り返ろうとした時、私はここ数年を思い起こさざるを得ない。この数年を一言で表現すると、「自分と繋がっていなかった」と言うのが近いかな。 それは、前回書いたように、物理的な移動が多かったこともあるが、人生後半戦、自分は何をどうしたいか?などとじっくり考えたいこの時期に、不規則な仕事や生活、そしてかつて経験のないある種のストレスを抱えて振り回され、自分と向き合う機会をなかなか持てずにいたことが大きい。 これはニワトリ・卵みたいなもんで、ストレスに邪魔されて自分と繋がれないとも言えるし、自分と繋がっていないから余計なストレスに呑まれる、とも言える。 ストレスのみならず、自分が何かしらの軸と繋がっていない状態は、脳のセンサーが鈍り、自分を甘やかす。例えば、時間やお金の無駄遣いやネガティブな思考を自分に許してしまう。まさに悪循環! ちなみに、自分と繋がる機会とは? 例えば、本や音楽や映画、アート、運動、動植物、旅、良質な食事に楽しい会話、誰かの意味ある生き方などに触れ、それらの「インプット」の中から、自分は何をどう感じたかを認識すること。 あるいは、瞑想や自然の中に身を置くことで自分をより「空っぽ」に近づけ感覚を研ぎ澄ますこと。 そして、好奇心や思考を自由に泳がせつつ、自分と対話したり外に向けて表現(「アウトプット」)したり、自分の立てたプランに沿っているかを確認したりして、普段の生活やこれからの生き方をポジティブに発展させようとする、そんな機会。 自分と繋がっていないと、焦りとフラストレーションが募り、ネガティブなエネルギーで飽和してしまう。そこへポジティブなインプットをしようとしても心に入る隙間がない。そのうちインプットしようという気すら起こらなくなる。 事実、私は 3,4 年前から今年の前半まで、自分と繋がるための行為が止まってしまっていた。 信じられないことに、あれほどよく聴いていた音楽は一切聴かなくなり、読みだせば止まらなかった小説なんかもパタリと読

2016 to 2017:意識のシャッフル (1) ~Transition~

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今月に入ってから、フェイスブック上では、私が以前いたニューヨークの友人たちが、市内の華やかなクリスマスのシーンを載せてくれている。 見慣れた街ゆえ、「わー、すごい!」というより、「ああ、もうこの季節か」と、今も自分が直接目にしているような感覚がある。 カナダ滞在は今で3年半だが、ニューヨークは7年半とより長かったため、自分の街として抱く「しっくり感」は、やはりまだニューヨークの方が深い気がする。 それは、ニューヨークの後、日本国内での引越・転職、その後カナダ、アメリカ、日本間の時差を伴う行き来が多くあり、落ち着かなかったせいもある。 言ってみれば、時間と場所の感覚が揺さぶられ、記憶と意識が常にシャッフルされていたような。 特に、去年はたまたま公私両方の都合でニューヨーク4回、日本3回も行き、さらに日本行きはシカゴや D.C. で乗り換え、日本国内での移動も多く、気づくといつも空港や駅にいたような気がした。 あるいは、ふとしたときに「あれ?今私どこにいるんだったっけ?日本?アメリカ?カナダ?」と一瞬本当にわからなくなることがあった。まさに意識のトリップ!? ニューヨークとトロントなぞは、街並みや建物が似ているし、同じ日本でも、自分がかつて住んだ新潟と仙台は街の規模が似ているので、よく混乱した。 例えば、新潟駅の南口と聞いて頭に浮かぶのが仙台の東口だったり。新潟の弁天(駅前の飲み屋街)で飲むよ、と友人に言われるも、目に浮かぶのは仙台・国分町のネオンだったり。 あるときは、カナダの林の中、乾いた小枝の上を歩いたときに聞こえたパ キパキッという乾いた音が、ニューヨーク時代よく行っていた ロングアイランドの森の風景をよみがえらせた。 私の意識はその頃のその場所へと飛んだ。記憶のトリガーは、あらゆる五感に潜んでいる。 それから、仕事上で時差のある複数個所とやりとりしていたことも、意識トリップ?の原因だったと思う。 一度、いつもの東京とトロントの時差に加え、ダバオ(フィリピン)、ロサンゼルス(米カリフォルニア州)、ガルベストン(米テキサス州)、カルガリー(カナダ・アルバータ州)とのやりとりが本当に同時期にあったのだ。全部時間がバラバラ! 「あれ?むこうは今ビジネスアワー?電話して

カナダからチャオ!

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私の住むエリアは結構大きなイタリアン・コミュニティ。銀行やレストランに行けば、しばしばイタリア語が聞こえてくる。 ステレオタイプに決めつけてはいけないものの、多くのイタリアンはいろいろとゴージャスに飾るのが好きだと思う。だから この辺りの家の玄関は、何かしら華やかな装飾がしてある。 ここにいて何といっても嬉しいのは、イタリア本場の食材が豊富にあること、そして美味しいカプチーノやエスプレッソを出すカフェがあること! しかもベーカリー併設で朝早くからやっている。パン&カフェ好きにはたまらない場所だ。 イタリアでは、仕事に行く前に寄る習慣なのか、朝は簡単なカウンターの前で、立ったままササッと熱い一杯を飲み干して行く人が多い。 私は時間に余裕があるときは、そんな入れ替わり立ち替わり行く人を眺めながら、カプチーノをサーブしてくれたイタリアン・マンマと、いくらかの会話を楽しむ。 だいたいが、焼き立てパンの他に、チーズ、デザート、お惣菜が揃う小さなグロッサリー・ストアでもあるから、店を出る前にちょこっと物色するのも楽しい。 今はもちろんクリスマス前でデザート系が主役。 色とりどりのリボンがかけられたパネットーネ(伊 : Panettone イタリアのクリスマスの伝統菓子)を 見てるだけで、なんだかワクワクしちゃう。 この前寄った時は、こんな面白そうなもの見つけた。なんと、赤チコリ ( 伊 :Radicchio) のパネットーネ! 通常入っているのはドライフルーツやナッツだものね。こんな野菜系があるとは!写真の箱にも記載があるが、イタリア・ヴェネト州、トレヴィーゾという都市がこの赤チコリで有名らしい。これはいつか食べてみたいぞ~。 それから、お店変わって、今度はイタリアン・スーパーマーケット。 こちらはチーズやパスタの種類が豊富。意外にオーガニック製品も取り揃えてある。 とはいえ、結果して私が買うのは、チョコレートやビスコッティ、タラッリといったおやつ系!いろんな味があって目移りする~。 この他に、近所にはワインやさんや生パスタ専門店なんかもあり、ブラブラ見るのが楽

水、柄杓、北斗七星(2) 

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日本の100均で買ったプラ製柄杓!便利! (前回からのつづき) 私は今年、栽培中の野菜に水をやるためにしょっちゅう柄杓 を握っていたが、夜は夜で犬の浪人の散歩で歩くたび、夜空の柄杓星=北斗七星をよく見ていた。 なんだか今年はやけに柄杓に縁があるなあ、と思いつつ。 星の位置というのは、見る時間が違えば変わってくるが、柄杓星と言われる北斗七星はとても見つけやすい。(それでしばしば北極星を見つけるためのガイドとも言われる。) だから私もまず外に出ると、「柄杓、柄杓」と心でつぶやきながら、北斗七星を探してから他の星の位置やその時の大体の時間を知るのだった。 毎日見るものだから親近感がわき、柄杓星=北斗七星についてはいろいろネットで調べたりもした。世界各地から見える北斗七星はさまざまな伝承があって面白い。 ちなみに、北米の先住民たちは、北斗七星は森の精が空にぽいっと放り投げた熊であり、柄杓の柄の部分は、森の精が尻尾をつかんで振り回して伸びたから、と言われているそうな。 また、中国・日本では北極星や北斗七星を神と仰ぐ北辰信仰や妙見信仰がある。こちらは歴史も長く、深すぎてまだ多くを把握していない。 そうそう、ある夜、私はコテージのデッキで、月夜の下でヨガをやっていた。 何かわからないけどすごくいい気が満ちていて、終わってふと背後を振り向いたら、北斗七星が輝いていた。私は北斗七星を背負った形でヨガをやっていたことになる。 それで思い出したのが「破軍星旗」。 「破軍星旗」とは、北斗七星が逆さに描かれた旗で、北斗七星の一つである破軍星を背にして戦うと必ず勝つという中国の故事から来ている。戊辰戦争時に庄内藩・ 酒井玄蕃 はこの「破軍星旗」を掲げて連勝を重ねたそうな。 そんな幸運を持つ星だから、ヨガの最中よい気分だったのかな?というのはこじつけにしても、北斗七星を背負えば、何となく御利益ありそう!? * さてさて、ちょいと取り留めなくなったが、こうして、水・柄杓・北斗七星のセットは、今年の春頃から何かにつけ意識に上っていたのだが、夏のある日、とても驚いたことがあった。 その日私はアメリカの友人から紹介された、あるトロント在住の女性に会った。私の仕事があまりに

水、柄杓、北斗七星(1)

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今年もあっという間に 12 月に入り、 1 年の『締めくくり』モードになってきた。 私はカナダ生活も慣れてきて、今年は結構気持ちも行動も外へ外へと出て、いろんなことに手を付けた気がする。 振り返ってみると、仕事にも個人にも共通した、いくつかのシンボリック(象徴的)な事柄が見えてくる。 それは、 水・柄杓 (ひしゃく) ・北斗七星 というキーワードで語ることができそうだ。 まずは、 水 。 年明けそうそうから、水に関する仕事が入ってきた。それで生物的にも社会的にも、いろんな角度から水の役割について考えることに。 そして実生活では、身体は大きいがまだ幼い秋田犬「浪人」の世話をしていたが、ゴクゴク・バシャバシャと美味しそうな音をたてて彼が飲む水の量といったら半端ない。大きなボウルにしょっちゅう水をつぎ足していた。 夏には、野菜を育て始めた。これは趣味はもちろん、現在の仕事にも関連していたこともあり、多種類の野菜それぞれに適量の水を、朝晩柄杓で丁寧に与えた。そして、植物たちは実に忠実に水に応え、すくすくと育っていった。 同じく夏に、ビジネスゲストをアテンドする機会があったが、自分のボスも含めやや高齢につき、熱中症や疲労防止のため、私は彼らに頻繁に水を飲むことを勧めていた。 そんなわけで、、、私は気づけばいつも柄杓や水ボトルを片手に、誰か・何かにせっせと水を供給していた。 まあこれらは、普段多くの人たちもやっていることであって、何も珍しいことではないだろう。 しかし、動植物をゼロから育てたり、人のケアをすることはこれまでの私のライフスタイルの中にはほとんど無く、何かと新鮮、かつ気づくことが多々あった。 水の存在を改めて考えさせられたのはそんな中でのこと。 『私が提供する水が、直接他者の生命に関わっている!』 つくづくそう実感したのだ。 幼犬の浪人にしても、やっと芽を出した野菜たちにしても、うっかり物忘れする高齢者も、自分で水を得ることはできない。そう、極端に言えば、彼らは 『私が与える水によって生きている』 あるいは 『私が水を与えなければ死んでしまう』 のだ。 また、水を与えることが生命を与えることならば、私が与えているのは単に水だけ