プロシュートの半分

まだ20代の始め、ある男友達と飲みに行った時のこと。さんざんおしゃべりしたあと、気が付けばつまみのプロシュートが1枚だけ残っていた。



「食べて食べて。もしおなかいっぱいなら私食べるし。」と先に友達に勧めた私。

そしたら彼は何も言わず、ナイフでプロシュートをきれいに半分に切って、「はい」と、私に半分食べることを促した。

仲良しの友達や家族なら、こんな行為は当たり前だろう。しかし、私はこの時すごーくショックを受けた。なぜなら、その頃の私にはそれを「半分こする」「シェアする」というアイデアが微塵もなかったから。

何事も白か黒かはっきりさせようとすることは、私の性分のひとつだ。1枚残ったプロシュートを前にして、「彼か私か」の二者択一しか頭になかったのは、当時の私には自然なことだった。

だから、それ以外の、しかも両者ともに楽しみを享受できるという発想に、「こんなにいい方法があるなんて!」と私は衝撃を受けたのだ。大げさだけど、別次元から新しい価値観・発想を与えられたような気がした。

* * *

それでも、その後ガツガツといろんな新しいことを吸収していった20代、30代の私は、誰かと何かを「シェアする」というより、まずは自分が何かを得るため、或いはある状況をサバイブするために、「白黒つける私」の方が優先的に現れていたと思う。

特にニューヨーク時代は、そこに「スピード」も加わり、「この機会を取るか捨てるか」「どこまでが自分の責任か」など、直ちに判断しなければならないことも多かった。それは決して悪いことではなく、物事を効率的に進めるときには必要なことだった。

ところが、カナダで犬のロウニンと生活する中で、かつて半分にされたプロシュートによって衝撃を受けた「シェアする喜び」を思い出した。

パンを食べている私に近づくロウニン。パンを少しちぎってあげると、とても美味しそうに嬉しそうに食べる。私にも喜びが湧く。


そうやって私が直接口に運んであげるその食べ方に慣れると、その行為が二人の間の「約束された幸せ」と化す。食べ物だけでなく、そこには「喜びのシェア」「習慣のシェア」がある。

しつけ上、こういう行為を避ける飼い主もいるようだが、私にとってロウニンは大親友であり、子どもであり、分身であり―。そこに主従関係はなく、対等に、純粋に、二人で何かをシェアしている行為なのだ。

そして、かつて大好きだったアニメ、『名犬ジョリー』を思い出す。覚えている人も多かろう、エンディング・ソングで「♪ビスケット1枚あったら(あったら)ジョリーと二人で半分こ♪」という歌。

名犬ジョリィのオープニングとエンディング(「ふたりで半分こ」は135秒時点から。オープニング曲も今だ歌える!※下記の画像が開けない時はここをクリック。)


曲は、「♪やさしい春風ふいたら(ふいたら)希望も半分こ♪で終わる。くう~、なんていい詞なんだ!

ジョリーが大好きだったから、当時も心に染み入る歌だったが、今になってロウニンと実際にビスケットを半分こすることはもちろん、いろんなものをシェアしてその喜びを実体験しているだけに、さらに染み入る歌になっている。


他者とシェアする楽しみはいろんな種類があり得る。例えば、景色を眺めるのが好きなロウニンを乗せてドライブするのも「楽しい時間のシェア」だ。



家庭菜園では、よくリスに植えたばかりの種やようやく実った野菜を持っていかれることがあるが、悔しさを抑えて、「食べ物をリスとシェアしているんだ」と自分に言い聞かせている(笑)事実、彼らはお腹を空かせていて生きるために必死なのだ。




人とのシェアであれば、もっとも日常的で手軽なことは、やはり美味しいものを一緒に食べることだろう。

ここ3年ほど、アメリカの友人が私のいるところに毎年遊びに来てくれるが、その時は変わったお惣菜やお約束のメニューなどの食事を揃えて、美味しさと経験を共有する。一緒にいる間、数十分おきに誰かしらから自然にこぼれる言葉は「ああ、幸せ。」


そう、食べ物が美味しいというだけでなく、それを「誰かとシェアしていること」自体も確たる喜びの一部になっているのだ。

* * *

シェアして心が震えるのは、喜びのシェアだけではないだろう。辛い状況を一緒にくぐりぬけることで、その人と強い絆が生まれたり、悲しみをシェアすることで励ましあえたり。

アルコールやドラッグ中毒の人たちが、体験談をシェアするリハビリ方法もある。苦しんでいるのは自分ひとりじゃない、ということが精神的救いになることは多い。

ちょうど最近、この先どんな人生を送ろうか、なんて考えることがあったけど、喜びであれ苦しみであれ、「シェアすることによる効果」というのが私の頭にチラついている。かつて友達がなにげなく切ったプロシュートの半分の意味が、今になってとても大事に思える。



自分が何かを誰かとシェアするということ、あるいは自分がシェアする当事者じゃなくとも、その効果を利用した活動など、自分の社会生活の中により取り入れていきたいな、なんて今、漠然と思っている。


* * *

おまけ(ジョリーファン限定):

上にリンクした名犬ジョリーのYou Tube映像ページに入っているコメントが、番組ファンだった者にとって「うんうん」と唸るものばかりで面白い!激しく同感したものをここにコピーしちゃう。

「今のアホなお笑い番組やるより こういう番組やって欲しい。再放送希望。」

「何でも白くてデカイ犬を見たら 俺の中では基本 全てジョリーw

「ジョリーに乗りたかった!」

「ピレニーズを始め、白い大きな犬を見たら、「あ!ジョリーだ!」と言って、世代の違う相方に「??何それ?」と言われるこんな名作を後の世代が知らないなんて悲しい」

ED(二人で半分こ)を聞くたびにプッチーの分は?とか思ってた。」

「子供の頃に見た賢明なワンちゃんの作品は、「名犬ラッシー」、「刑事犬カール」とこの「ジョリイ」だと思っております。」

「昔の飼い主に見つかって、鞭を怖がっていたジョリー。けれども、大事な友達のセバスチャンにその暴力が向けられた時に、その恐怖に立ち向かい、反撃した。 セバスチャンも魔犬と呼ばれていたジョリーと偏見なく友達になって、迫害から庇って逃亡の谷に出た。 真の友情に結ばれた絆に毎週テレビの前で感動してました。」

「このアニメ………めちゃくちゃ好きだったなぁ。 いつかジョリィの様な大型犬を飼うのがいまだに夢見ているよ!! 


以下、笑ったコメント!

「松井秀喜に国民栄誉賞やるくらいなら(このテーマソングを歌っている)堀江美都子にやってくれ」  ←ウケる

「くそぉ、巻き舌できないT_T←オープニングソングの方ね。みんなが真似しようとして苦労した(笑)

「ジョリィがかわいすぎてかわいすぎて萌えしにそうです><もふもふしたい だれかこのこください!!一生愛するわ ジョリィィィィィィィ!!!←この気持ちよくわかる

「プッチーは、ビスケットと毛布を分けてもらえないのか、と当時アニメ誌などでも笑い話になった。 ガンダムやヤマトのファースト世代はこういうのも観ていたので、栄養のバランスが取れていたかもしれないね、そこ、とても重要。」 ←プッチ―の分を心配した声多し。

グレートピレニーズってジョリィみたいな感じですよ^^ ビスケット半分ではさっぱり足りませんがw ←ハイ、ロウニンも全然足りないです。

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