見た目で決めちゃダメ


私は、日本人女性としては背が高く175cmある。小さい頃から背が高かったから、常に頭一つ飛び出て目立っていた。

今でこそモデルのようにすらりとした長身の女性や背の高いハーフの子も多いけど、私が育った時代かつ保守的な田舎ではどうしても目立ち、あからさまに『でっけー!』などと言われることはよくあった。

水がいいせいか?新潟の田舎で文字通りすくすく育った私。

「皆と同じ」を美徳とする日本の社会文化が根本にあるからか、人と違う容姿を持つ者は何かと「別物」扱いを受けるのだ。悪気はなくとも、ある意味一種の差別なんだろうな。

ただ、私はなぜか小さい頃から、そうやって言う人たちは「ごく限られた認識しか無いだけ」と漠然と思っていたからあまり気にしなかったように思う。

また、何か言われて気にしたところで背が低くなるわけじゃないから、気にする時間が無駄!という、今考えれば子供らしからぬ?割り切りがあった。(常に自分が興味あることに心奪われていたので、他人の言うことはどうでもよかった(笑))

それに、実際は、背が高いおかげで、部活動では1年生の時から試合に出させてもらったりという恩恵もあったのだ。

ところが、友達の中で同じように背が高い子、逆にすごく小さい子、太っている子なんかは、周りに何か言われて気にしてくよくよしたり、すっかりコンプレックスになっている子は多かった。思春期は学校の男子の目は特に気になるしね。

電車やバスに乗ると、まず、周りの人がジロジロ見る。あの無遠慮で無意識の差別的な目。見られる方は何もしていないのに「引け目を感じること」を強要されるような。まるで存在していることがいけないような。

本当は身体的な特徴は気にする事じゃないのに、社会が「コンプレックス」を作り上げている。それってとっても不条理。

例えば、強面(こわもて)の人が何となくつっぱってしまったり、体格のいい女性が華奢な男性に甘えられなかったり、というのも、周囲の期待やイメージ通りに演じてしまうという、暗黙の社会的・文化的プレッシャーに応えているところがあるように思える。(特に日本)

また、アメリカでは人種問題がエスカレートしているけれど、肌の色や出身地の違いで争うことが、この広い宇宙の中、あるいは何万もの生物の種の中で、いったい何の意味を持つのか? って思っちゃう、、、。

人種のサラダボウル・ニューヨーク

基本的に、種の保存=異なるものを避ける、恐れるという本能的な部分が関わっているのだとは思うが、逆に「生きる」「食べる」「愛する」などという、生物に共通した本能的な行為だって多々ある。

その共通した部分で人間ならではの知力を使って協力しあえばいいのに、人間はわざわざ違いを取沙汰すことやステレオタイプなイメージでもって、本当は問題じゃないことを問題にしている気がする、、、。(それも含めて人間だということなんだろうけど)

本当は中身はみな同じなのに。身体が大きいからってその人が恐い人というわけじゃない。身体が小さいから臆病なわけじゃない。太っているから、肌の色がどーだからといって、その人に何を言ってもいいわけじゃない。

強い意志や根性ある女性が傷つかないわけじゃないし、見た目「草食」なか細い男性に強靭な精神力がないわけじゃない。大きいくせに、とか、男だから、とか、見た目やカテゴリーで決めつけちゃダメ。人間として中身は同じ。持っている感情も同じ。

***

私のこの想いは人間だけでなく対動物にも及ぶ。(注:このあと、蛇の写真が登場するので苦手な人はスキップしてね)

秋田犬のロウニンは大きいから、「強い」「獰猛」とまず思われる。身体的な能力としては確かにそうだが、ハートは必ずしもそうではない。家族に対してはとってもスイートだし、大きな音や掃除機や芝刈り機を怖がったりする。身体のサイズは心のサイズと同じじゃ決してない。
 
初めてドローンと遭遇。ドローンが動きだしたらロウニンは怖がって逃げ出した!

他の大きな動物だって、危険が迫る時に攻撃的になるわけであって、仲間と仲良くしたい、遊びたい、って時はフツーにあるだろう。(ここで人間と友達になりたかった『泣いた赤鬼』の物語も思い出す、、、。)

例えば、人間側が「見た目」から受けた恐怖のせいで、大きな動物を閉じ込めたり時には殺したりすることは、本当に身勝手だ。

蛇。

何も悪いことしていないのに、その姿・形で怖がられ嫌われている。ごめん、私も正直、蛇は怖い。でも、考えたらそれも不公平。私たちと同じ「生きている」存在なのに。

ある暖かな春の日、湿気のないカナダでは珍しく、公園で蛇と遭遇したことがあった。反射的に「ひやっ」としてしまったが、次の瞬間、見た目で判断することを申し訳なく思った。

それで、何とか心が通じ合わせるようなことはできないか?と思い、静かに近づいて思い切って蛇の横に並んでしゃがんでみた。

蛇はしばらく動かずじっとしてた。でも、そのうちすうっと路肩の方に進んで消えていった。

静かに消えていった、お腹の黄色が綺麗だった蛇。

その間私は襲われないかとかなりドキドキしていたけど、おとなしく消えていったところを見ると私に敵意がないことだけはわかってくれたかも?お近づきの第一歩としては上等だ。
、、、というのは、単なる自己満足としても、私は生物の持って生まれた姿についてしばらく考えた。

蛇は何のためにあのような特別な姿でいるのか?相手を怖がらせたり気持ちわるがせることで身を守っている、というのはひとつあるだろうが、(前述の「異なるものに恐怖を覚える」を逆にとった原理。)蛇は昔から神話や伝説の中で特別扱い・シンボル化されていることが多いから、相手を威嚇する他の動物と違う、何か特別な存在のような気もする。

* * *

さてさて、とりとめなくなってきたが、今日言いたかったことは、生き物をサイズを始め、その見た目で判断しちゃダメということ。そして与えられた姿には何かしらの意味があるだろうということ。

背の高い私が、以前住んだニューヨークや今いるカナダで、日本で受けた差別的な扱いを受けたことはない。むしろ「日本人にしては背が高い」という特徴になって、相手に覚えてもらえるという大きなメリットがある。

「よし、この地へ来るべくしてこの身長を授かったんだ!」と思えるし、見た目による差別で苦しむ人にシンパシーを持つことが出来る。だから私が背が高いことには意味があったのだ。

ところ変われば価値観も違う。だからますます見た目で決めつけちゃダメなのだ。それは決して世界共通の認識ではないし、時代が変わると変わったりもするから。

もし今、自分の外見について誰かに何か言われ気にしている人がいるならば、ぜひどこか他の国へ行ってみて欲しい。実は気にしていることはどうでもいいことだったり、実は大きな財産であったことに気づくかもしれないから。

* * *

下記は、トロント市役所近くの裁判所の近くにある私の好きな像。



右側の大きなライオンと、見えづらいけど左側には小さな羊?が「はかり」のそれぞれの端に乗っている。見た目の体重の違いは明白だが、はかりは均衡を保っている。これは「法の下の平等」を表した像だから。
 
どの個人も法の下には平等というメッセージ

これは裁判所にあるだけに、あくまでも「法」が主題なのだろうが、今日私がここで書いていいたかったことに近いから載せておく。

背の高い私も、背の低いあなたも、身体の大きなロウニンも、身体の小さなチワワも、その感情や精神といった中身、そしてその存在そのものに違いはないのだ。

大きい秋田犬のロウニンと数サイズ小さい柴犬のサクラ。

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