擬似ママ体験、そして種(しゅ)を越えて
おととしの終わりごろから私の生活を一変させた男がいる。
それは、、、一匹の秋田犬!
厳密に言うとボス家族の犬だが、諸事情で生後二カ月でもらわれてきた時から、ほぼ私が世話をしている。
名前は「浪人(ろうにん)」。時代劇や日本文化が好きなボスの息子がつけた。浪人って人の名前じゃないんだけど、、、ま、そこは流して(笑)
浪人が赤ちゃんの時は本当に大変だった。
しつけに散歩にお遊び。車で一緒に出掛けるときの注意諸々、とキリがない。
その合間に仕事をしていたわけだが、人間の子供を持つお母さんの苦労が少しわかった。
自分が小学生の時、子犬をもらって飼ったことはあったが、しょせん自分も子供、結局世話をしていたのは母だ。だから今回初めて自分がキチンとお世話をしただけに、その大変さを実感。
擬似ママ体験は、そういう物理的な大変さだけではない。
私自身子供はいないので、これまで自分の中に直接「母性」を感じたことは皆無に近かったが、浪人によって、私のどこかに眠る母性的感覚が呼び起された気がする。
1)食事をバクバク食べる&水をゴクゴク飲む姿
2)見事なウンチ。
3)スヤスヤとピースフルに眠っている姿。
そう、生物として一番基本的な「生命維持行為」が順調に行われているのを感じた時、私は安堵と喜びでいっぱい。逆にご飯を残したりウンチをしない日は不安になる。
「とにかく健康に育ってほしい」
何よりもそのことを切に願うのは、人間の子供に対する気持ちと同じであろう。
そうそう、私が大好きだったアメリカのドラマ「Mad Men」でこういうエピソードがあった。
主人公のドンが、事情があって子供を捨てて田舎から出てきたウェイトレスの女性に惹かれ、関係を持つ。その女性もドンを受け入れ、楽しんでいたかに見えたが、ドンの自宅で過ごした翌朝、女性は泣いていた。それは、ドンと楽しんでいる間、子供のことを忘れてしまっていたから。一瞬でも子供のことを忘れた自分が許せないと、その罪悪感に苛まれた女性はドンの元を去ってしまう。
この心境、わかる!
たまに仕事に没頭して、数時間浪人のことを忘れた時、私もなぜか罪悪感がよぎることがあるから。はっとして駆け寄って浪人を「ごめんね~」とばかりにハグハグなでなでする。(本人、なんのこっちゃ、という目)
ちょっと気に掛け過ぎかもしれないけど、これも母性の一種?だとしたら、働きながら育児するママって大変じゃない?そのうち慣れるものなのかな。
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人間社会の大人同士の世界は、何かしらの駆け引きがあったり、損得があったり、貸し借りや義理、しがらみ、、、生きていく上でどうしてもそういう人間関係がある。
でも、母子に似た浪人との関係は、全く次元の違うように感じる。無条件で無償で、いつでも頭の片隅で相手のことを想い、自分ではコントロールできない大きな力でつながっているような。私にとっては全く新しい関係。
これはいわゆる、宇宙や愛のレベルってやつ?子孫を残す、生命を育む、母なる存在、そういったことはある意味神秘の域だもんなあ。
さらに時々、もはや「母性」の域を越えて感じることがある。何と言うか、、浪人を犬とは思えないのだ。
例えば、、、夜、寝ている時は暗い部屋でお互いの姿は見えない。でも、浪人の呼吸だけわずかに聞こえる。生き物としての気配だけ。そこでは人間と動物という区別がなく、ああ、単に同じ生物仲間だな、という感覚になる。
時々、アメリカのドラマ「スタートレック」を思い出したりもする。よく異星人がモニターに映って隊員たちと話していたものだが、異なる種が心を通じ合わせ、協力し合うストーリーはよくあった。
宇宙上で言えば、人間と動物、そして植物においても、いずれもひとつの種に過ぎず、公平に共存すべき・できる存在なのだ。少なくとも私は浪人に対してそう感じている。浪人は私の宇宙上のパートナーだ!
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突然私の生活の中に降って湧いた浪人。その偶然のわりに、前半に書いた「母性」だけでなく、育てる、一緒にいる、という行為から多くの気づきをもらっている。浪人はまるで天からの贈り物。気づきについては、また改めて書き留めよう。
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