水、柄杓、北斗七星(1)
今年もあっという間に12月に入り、1年の『締めくくり』モードになってきた。
私はカナダ生活も慣れてきて、今年は結構気持ちも行動も外へ外へと出て、いろんなことに手を付けた気がする。
振り返ってみると、仕事にも個人にも共通した、いくつかのシンボリック(象徴的)な事柄が見えてくる。
それは、水・柄杓(ひしゃく)・北斗七星というキーワードで語ることができそうだ。
まずは、水。
そして実生活では、身体は大きいがまだ幼い秋田犬「浪人」の世話をしていたが、ゴクゴク・バシャバシャと美味しそうな音をたてて彼が飲む水の量といったら半端ない。大きなボウルにしょっちゅう水をつぎ足していた。
夏には、野菜を育て始めた。これは趣味はもちろん、現在の仕事にも関連していたこともあり、多種類の野菜それぞれに適量の水を、朝晩柄杓で丁寧に与えた。そして、植物たちは実に忠実に水に応え、すくすくと育っていった。
同じく夏に、ビジネスゲストをアテンドする機会があったが、自分のボスも含めやや高齢につき、熱中症や疲労防止のため、私は彼らに頻繁に水を飲むことを勧めていた。
そんなわけで、、、私は気づけばいつも柄杓や水ボトルを片手に、誰か・何かにせっせと水を供給していた。
まあこれらは、普段多くの人たちもやっていることであって、何も珍しいことではないだろう。
しかし、動植物をゼロから育てたり、人のケアをすることはこれまでの私のライフスタイルの中にはほとんど無く、何かと新鮮、かつ気づくことが多々あった。
水の存在を改めて考えさせられたのはそんな中でのこと。
『私が提供する水が、直接他者の生命に関わっている!』
つくづくそう実感したのだ。
幼犬の浪人にしても、やっと芽を出した野菜たちにしても、うっかり物忘れする高齢者も、自分で水を得ることはできない。そう、極端に言えば、彼らは『私が与える水によって生きている』あるいは『私が水を与えなければ死んでしまう』のだ。
また、水を与えることが生命を与えることならば、私が与えているのは単に水だけではないだろう。
そこには「ケアする」という一種の愛情、想いがある。だから、目には見えなくとも、水と一緒に愛も注いでいるようなものだ。
相手はそれに応えてエネルギーに満ちる。そうして双方向で想いが行きかい、絆が生まれる―。
言ってみれば、水は生命と愛の運び屋だな!水とは地球上でなんと基本的で重要なものだろう。そんなわけで、今年はぐっと「水」に近づいた年になった。
次回は、その水を汲む「柄杓」と、「柄杓星」と言われる北斗七星の話へつづく。
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「日本映画事典」より |
番外編(自分用メモ):「ひたすら水を注ぐ」という行為で時々思い出していたのがこの映画。
モスクワ国際映画祭グランプリ(1961年)他受賞多数。
セリフは一切なく無声映画に近いうえ、瀬戸内海の孤島を舞台にした単調なシーンが続く。その限りない孤立感としつこいくらいの繰り返しに何だか深い意味が見えてくる。
その単調なシーンとは、まさに「やせた土地の作物にひたすら水をやり続ける」シーンなのだ。
この映画、ニューヨーク在住時にちょうどBAM(Brooklyn Academy of
Music)で新藤兼人特集をやっていて見たのだが、一緒に見ていたニューヨーク育ちのアメリカ人の友人はあまりの単調さに「つまんない!」と途中で飽きてしまった。
しかし、日本人あるいは、厳しい自然で過ごしたことのある人ならばこの単調さと過酷さが染み入ってくると思う。いずれにせよこの映画では瀬戸内海にしろ作物用の桶の水にしろ、水を常に感じさせる映画だ。
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