2016 to 2017:意識のシャッフル (1) ~Transition~
今月に入ってから、フェイスブック上では、私が以前いたニューヨークの友人たちが、市内の華やかなクリスマスのシーンを載せてくれている。
見慣れた街ゆえ、「わー、すごい!」というより、「ああ、もうこの季節か」と、今も自分が直接目にしているような感覚がある。
カナダ滞在は今で3年半だが、ニューヨークは7年半とより長かったため、自分の街として抱く「しっくり感」は、やはりまだニューヨークの方が深い気がする。
それは、ニューヨークの後、日本国内での引越・転職、その後カナダ、アメリカ、日本間の時差を伴う行き来が多くあり、落ち着かなかったせいもある。
言ってみれば、時間と場所の感覚が揺さぶられ、記憶と意識が常にシャッフルされていたような。
あるいは、ふとしたときに「あれ?今私どこにいるんだったっけ?日本?アメリカ?カナダ?」と一瞬本当にわからなくなることがあった。まさに意識のトリップ!?
ニューヨークとトロントなぞは、街並みや建物が似ているし、同じ日本でも、自分がかつて住んだ新潟と仙台は街の規模が似ているので、よく混乱した。
例えば、新潟駅の南口と聞いて頭に浮かぶのが仙台の東口だったり。新潟の弁天(駅前の飲み屋街)で飲むよ、と友人に言われるも、目に浮かぶのは仙台・国分町のネオンだったり。
あるときは、カナダの林の中、乾いた小枝の上を歩いたときに聞こえたパキパキッという乾いた音が、ニューヨーク時代よく行っていたロングアイランドの森の風景をよみがえらせた。私の意識はその頃のその場所へと飛んだ。記憶のトリガーは、あらゆる五感に潜んでいる。
それから、仕事上で時差のある複数個所とやりとりしていたことも、意識トリップ?の原因だったと思う。
「あれ?むこうは今ビジネスアワー?電話していいんだっけ?」
「あれ?書類をダバオとガルベストンそれぞれ朝までにEmailするには、さらに時間の違う東京とトロントのスタッフの仕事をどう組めばいいんだ?」
などと混乱を極めた。iPhoneのWorld Clockを頻繁に見てたっけ。
こうして、私の時間と場所の感覚、ひいては記憶と意識はいったんめちゃくちゃにシャッフルされた。だからちゃんと「固定して」残っている最後の記憶がいまだ5年以上も前のニューヨーク、というわけだ。
しかし、今年後半からそれが変化を見せた。
今年は春先に日本から戻ってからずっとカナダに居続けたわけだが、出張がなく、気にする時差もほぼ日本だけ。ここに腰を据えることができたおかげで、ようやくトロント界隈を探検したり、新しい友人を作ったり、野菜を育てたり。
自分がここに留まっているからと狙ってないのに、そういった訪問が多かったのは不思議な偶然だが、結果して私は「カナダ側の人間」というポジションを自覚する機会となった。
思えば、前述の「記憶と意識のシャッフル」を経て、今年後半、たまたまカナダにストン、と降り立った感じ。そしてここから少しずつ新しい「始まり」が見えてきている。
「たまたまカナダ」と言うのは、今後カナダに根を張るかどうかは別として、これから自分の意識やライフスタイルというのは、もはや物理的な場所を問わないことになるだろう、ということ。
それこそ「記憶と意識のシャッフル」がもたらした感覚。意識上で何らかの枠が取れたような。(ボーダーレスな意識の状態は、インターネットの世界によく似ている。)
そんな変化と同時に、頭に残っていたニューヨークの記憶も、自然に現在進行形のカナダに上書きされ始めてきた。
単に過去のことが消えていく、忘れていく、というのではなく、自分の意識が切り替わったような、自分のいる次元がすり替わったような、そんな感覚で。
あるいは「前世」という言葉に例えられるかもしれない。
かつての新潟や仙台で過ごした時の記憶や感情はありありと憶えているが、一方でそれぞれの時代が独立して完結している「前世」のように感じることがある。
だから、ニューヨークも今まで「今世」に位置していたのが、最近「前世」へとスライドし、今自分はカナダという新たな「今世」を歩み始めている、ということだ。
もっとも、これまでの実際の物理的な居場所の移動による区切りとは違って、今度のは、場所という概念自体が消えるという意識による区切り。
この数年は、まさにそういったステージへのTransition(移行)だったんだろうな。
とはいえ、一体どんな未来が待っているのか、怖いもの見たさも混じってワクワクする。
何かが前に動き出すポジティブな予感とともに新しい年を迎えられることは、もやもやしたまま年を越すのと違って、とてもラッキーでハッピーなことだと思う。
Merry Christmas & Happy Holidays to all!
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