私に会いに
夏の終わりにふらりと家と仕事から離れて、ひとり車を飛ばし、湖のそばに泊りに来るのが恒例になりつつある。 去年、おととしは2泊したけど、今年は1泊。それでも日常から一時的に離れるのはすごく解放感がある。 旅は旅でも観光旅行とは違う。目的は、日常の煩雑さから自分を解放し、やることリストやアイデアやスケジュールの整理をし、読書やヨガなど、デジタルじゃないことに時間を使うこと。 リトリートってほど大袈裟じゃないけど、夏から秋へ季節が変わるときにこの種の旅をすると、効果的なリフレッシュができることをここ数年で学んだ。 それにしても今回は天気が大当たり。すでに朝晩10℃を下回る日があり紅葉も始まりつつあるが、この数日(私の旅行中)だけ夏が戻って30℃近くに。 また今年は雨の多い夏だったが、この数日は快晴。おかげで美しい湖を眺めながらこれを書くことが出来ている。もうそれだけでかなり満足。 湖のある北へ向かう道は、ひたすら農場が広がる。成長したコーンや大豆、草を食む牛や馬、そしてオンタリオ南西部に相当数あるウィンドミル(風力発電)を横目に車を走らせる。 ちなみに、往復の車の中では、80-90年代の日本の歌謡曲をかける。普段全くそれらを聞かないが、一人旅となるとそれらを旅の友にしたくなる。 レベッカ、ボウイ、Bz、聖子に明菜 etc…もちろん一人カラオケをする。TMネットワークにバービーボーイズ、、、高校時代が蘇る。 音楽は、過去を連れてくる。それらを聞いていた頃の自分の生活や感情を思い出させる。これもひとつの「現在の日常から離れる」という行為だ。こうして、旅の間は、過去・現在・未来の自分を客観的に眺めることになる。 そんな中、時々ふと、旅をしている非日常な自分の方が本物で、日常の自分の方が他人のように感じる瞬間がある。旅の間は何にも邪魔されずじっくりと自分と向き合い、つながっているから? 日常の自分は、とにかく時間刻みで何か目の前のことに追われている。何かこう、表面的。 哲学や社会学で、「人は集団の中で社会的仮面をかぶりその役割を演じる」というようなことが言われる。 忙しい日々の中では、他人に対してだけでなく、自分自身に対しても仮面をかぶせ、「やるべきことをやる」ことを優先させている気がする。それは生きていく中で必要な行為だけど、一種の制限・抑圧だ。 だから時々、裏に隠れた自分が窮