YOU'VE GOT A FRIEND
今から2年ちょっと前、カナダでの最初の半年の滞在を終えたあと、ビザの関係で数カ月日本で待機していた期間があった。
その間は新潟の実家で遠隔勤務をしながら過ごしていたのだが、まわりは田畑と山ばかり。仕事の合間の気分転換も、もっぱらコーヒー持って庭に出るくらい。
しかし、ちょうどその時は、冬から春へ、そして夏に差し掛かる季節。植物たちが一斉に芽吹く素晴らしい時期だ。そんな時に実家に張り付けで居たのはむしろグッドタイミングだった。
圧倒的な美しさを誇る桜!
雨の度にすくすく育った柔らかなタケノコ!
つやっつやに輝く木々の若芽!
それらの「新しいエネルギー」と来たらとにかく半端ない!見ているこっちにビシバシ飛んでくる。
仕事の休憩時に庭で雑草を取ったりもしたが、その雑草からも、強い生命力を指先に直に感じた。
そういった成長のエネルギーとは別に、植物がそもそも備え持つ機能や構造もやけに心に響いた。
母とプランターに植えたキュウリも、見事に機能的に支柱に絡みついていった。そこには人間や動物と同じような「判断」や「意志」が備わっているように見えた。
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幼少期を過ごし、大人になってからもたまには帰っていた同じ家、同じ町ではあるが、その春に限って特別だった。特別に植物のエネルギーを感じ、特別に植物が高等な創造物だとの実感があった。なぜだろう?
幼少期も春はワクワクしたものだが、このような感じ方ではなかった。当時はたくさんの自然に囲まれた環境が当たり前過ぎたのかも?
一度そんな環境を離れ、都会でいろいろな経験をしたあと、改めて自然と向き合ったその春は、ちょっと大げさかもしれないけれど、まるで未知との遭遇のようだった。
その感覚 ― 言ってみれば「植物との新しい関係」は、カナダに戻ってからも続いた。私の目はやけに草花や木々に惹かれ、同じ生き物としてより近い存在に感じるようになっていた。
奇遇にも、戻ってすぐにトロントから北へ行った田舎での仕事も始まり、自然が豊富な場所に頻繁に行くことに。
さらには、その年の秋に先般書いた犬の浪人がもらわれてきたので、彼の散歩のため、私は必然的に外を歩き、道端の植物たちに接近することにもなった。
車生活だけなら無かった機会だ。おかげで季節の変化に忠実に呼応する植物たちの変化もつぶさに見て取れた。
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ある日、北の職場近くの道端に咲く花を摘んでいた時のこと。私は自分が小さな頃、あぜ道で同じように花を摘んでいたことを、フラッシュバックのように思い出した。
そうか、私の「植物との新しい関係」は、「新しい」のでなく、「元に戻る」ということなのかも。小さい頃に無意識にあった関係 ― それは自然と純粋に同化し、植物と対等にコミュニケートしていたような、そんな関係へと。
20代、30代というのは、新しいことを覚え、社会に出て仕事を始め、どうしても人間の世界にどっぷり浸かる時期だ。事実、私も自然な環境からは遠ざかっていた。
でも今、人生でぐるっと輪を描くように、子供の頃―いわば「私」というものが作られた最初の根本的な部分へ、自分が向かいつつあるような気がしている。
それは他にもいくつか心当たりがあってのことではあるが、もしそうであれば、あの2年前の春、海外や遊びに行った先の公園などではなく、幼少期を過ごした実家の植物たちが、トリガーのひとつになったのもうなずける。
本当はこれまでだって植物たちには、つながろうと思えばいつでもつながれただろう。彼らはいつでもそこにいた。私が今まで、意識に違うフィルターをかけていて、彼らが目に入っていなかっただけなのだ。
今、路肩で風にそよぐ花たちは、ひとたび触れれば、カナダと日本の物理的距離も、数十年の時間的空白も消え、強いつながりだけが蘇ってくる。
彼らは、長い間会っていなかった、ずっと昔の私の友達なのだ。
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