1月の雪道
先日北の職場近くの農場が広がるエリアにミーティングがあって行ってきた。 広大な農地があるほかに、この辺りは酪農・畜産もやっているので、通りすがりに牛、馬、羊、時にはロバやアルパカまで見かける。 この日も白黒の可愛い牛たちと遭遇。おそらく乳牛?人慣れしているようで、車を停めて近寄ったら、牛たちの方こそ私の側に集まってきた。 か、かわいい!しかも犬のロウニンと同じ白黒の配色だから、特別に愛着が湧いちゃう。 ところで1月は冬という季節のど真ん中。その年によって雪の積もり具合は違うが、必ずいくらかはあるのが1月だ。 NYセントラルパークの雪道 私はこのブログのタイトルにも意味をこめたように、新潟で生まれ育って以来、ほぼ一生を雪の降る北の地で過ごしている。 だから、雪景色には馴染みがあるし、何だか年中雪道を歩いているような気もしている。 それでも、白い雪が目に見える雑多なものをいったん何もかも覆って、この世とは思えない幻想的な、しかし自然の本体の姿で現われた時は、ちょっと特別な気持ちになる。 自分の目の前にある現実的な問題や人間の行いというものが、逆に非現実でちっぽけに感じられてならない。 そして、雪道や吹雪の中を歩く時は、乾いた平坦な道を歩くのと違って、一歩一歩転ばないように踏んばりながら歩くものだから、まさに自然の力を思い知らされる。 どこまでも続く雪道 ひたすら黙々と歩くその間は、もはや「瞑想」に近い。 雪を踏みしめて歩くたび、足の裏から入ってくる自然からの応答は、ちっぽけな問題に対するものでなく、 「自分や人間はこの世で何をすべきか?」 「何が一番大事か?」 というような、普遍的かつ、根本的な問いかけだ。 1月の雪道を歩くたびにそうやって同じ問いかけが巡ってくるものだから、数年前踏みしめて歩いたあの雪道と、今歩いているこの雪道が続いているような錯覚にさえ陥る。 * 1月の雪道によってリセットされる、初心にかえる、というのは、単に思いを巡らすだけの話でない。 カレンダー上で1年の始まり、ということを抜きにしても、これまで自分の人生の中で、1月が何らかの区切りやスタートであったことが過去に何回かあった。 ...