この瞬間のWill
今日ここに載せる素晴らしい夕焼けの写真は、この前の日曜日(Sep 9, 2018)、コテージ近くのシムコ―湖畔で撮ったもの。
孔雀か火の鳥が降り立って右の方へ進んで行くように見え、また右上の薄いピンクの膜が天女の衣を彷彿とさせ、とても幻想的だった。
夏至の頃21時過ぎだった日没は、今や19時半。目での認識だけでなく、気温が下がって空気が澄んでいくのを肌でも感じるから、夕陽がより一層美しいと思えるのかもしれない。
さて、この日はおだやかな夕暮れだったが、実はこの辺り、時々竜巻が発生する。先日はコテージにロウニンと滞在中に竜巻警報が出て、いざとなったら半地下のスペースに逃げようと、懐中電灯を携えて経過をうかがっていた。
結果、竜巻の進路がそれて無事だったが、仙台にいた頃、ドンっと揺れたあとに、更に来る地震に備えた時のことを久々に体感的に思い出した。避難グッズを枕元に置いて服を着て寝たこともたびたびあった。
それにしても、世界中で自然災害が多発している。熱波に水害、山火事。この1,2週間だけでも、地震、台風、水害と立て続け。今この文章は、アメリカ東部を襲っているハリケーン・フローレンスの中継を聞きながら書いている。
この災害のさなか、17年目の「911」が到来したのも皮肉だ。自然だけでも充分猛威なのに、人間同志でわざわざ問題起こさなくても、と思う一方、争うこと憎むことも人間の一部なんだろうな、とも思う。
安全なイメージのあるカナダだってそれなりに犯罪はあるし、トロントでの銃撃事件やテロ行為も増えている。
実は、今日書こうとしていたのは「Will(遺言)」のこと。こうして災害や事件のニュースを見ていると、本当に自分や他の人の命が突然絶たれることもありえるよなあとつくづく思うから。
もちろん自分はまだまだ生きる気満々だけど、例えば、あの日ワールドトレードセンターに居た人たちだってもちろんそう思っていただろう。だから私に限らず、誰もが今の時点でのWillを残しておくのがいいんじゃないかという気がして、、。
欧米では婚姻時や存命中にあらかじめWillを残すことが多い。状況や意志が変われば、その都度アップデートして。残された者が無用なトラブルを回避し、スムースに事後処理をするためという、至って現実的・実務的な目的で。
ケアすべき資産などがたいしてなくても、死亡のお知らせや持ち物の処分、葬式や供養の方法などの希望を残すのはいいと思う。最後まで本人が自分の終わり方を選択できるのがいいし、家族もその通りにすればその人を尊重できるし、実際楽だと思うし。
職務や家族の社会的地位によってはそうシンプルにいかないケースも多々あるだろうし、災害においてはWillの通りに行かない事態もあるだろう。
しかし、年齢的に、あるいは病気などで「死が近づいている」ことがわかっている人は、生前にお別れ会をするなど、「終活」をする人も出てきていると聞く。遺灰は桜の木の下にとか、海の見える丘にとか、従来の墓地や墓にもこだわらない希望を残したり。
去年ある記事を読んだ。不治の病に苦しむ男性が、治療・延命の継続を止め、この世を去る選択をした話。 (英語)
At His Own Wake,Celebrating Life and the Gift of Death [May 25, 2017 New York Times]
「Irish wake」という通夜にあたるセレモニーを彼のお気に入りのファミリー・レストランで行い、彼の人生を家族や友人と祝福したのち、医師からの注射によりこの世を去る。彼は死に場所に、自宅の朝の庭を選んだ。
病気とはいえ、「Today is the last day of my life...」と、その最後の日にビデオまで残した彼の目には、はっきりとした意志が感じられた。(記事中にビデオ掲載も有り)
元カトリックの神父であり、その後市民運動やソーシャルワークに従事した彼は、単に個人の選択というより、他者に対してひとつの死のモデルを示したような気がする。「人生とは祝福すべきもの」「死も私たちに与えられたギフトの一つ」とのメッセージを残しつつ、、、。
この日、私は眠れなくて何時間も経過したのち、ベッドの中でこの長い記事を読んだのだが、明け方の、言ってみればあの世とこの世の境目のような時間に読んだことも手伝ってか、「意志の尊さ」というものに心震わせ、涙したのを憶えている。
それが死の選択だったとはいえ、人生の中で、意志を持てること、選択を持てること自体が素晴らしいことに思えたのだ。
それゆえ、災害や事故、事件など、他の力によって命を絶たれるのはどうにもつらい。でも、今の世の中それが起こり得ることも事実。だからこそ常に意志を持ち、意志を表現し、残しておくことがいいんじゃないかと。
現在進行形で残せば、それはその人がいままさに生きている記録だし、その意志によって起こるであろうまだ本人すら知らない未来への布石が隠れている。それらはまた、その人が亡くなった時点で、その人が「生きた」証明になる。
それは、遺言という意味のWillと、その時のさまざまなものに対する意志であるWillのどちらの意味でも。
生き続ければ自分も状況も変わっていくので、それはその都度アップデートすればいい。私にとっては、このブログがまさに人生の記録であり、日記タイプのWillを日々綴っているようなものだ。
普段の意志や考えはよく書いているから、どれどれ、これを機に、今の時点での自分の遺言的Willを書き出してみよう。
といっても、遺すものがほとんどないから項目も少ないんだけど。そもそも私、墓も、葬式も、供養も要らないと思っている。ただ自然に還ればいいだけ。遺灰はどこぞの野にでも山にでも撒いてほしい。、、、これこそWillか。
想ってくれる友人がいれば、自身の部屋で、私向けにちょこっと花でも飾るか、そこらへんに咲いている野の花を見て思い出してもらえればそれで充分。
たいしてあるわけでもない金銭的資産、写真やデータは家族一任。服や持ち物は寄付。
脳死等により私の意識が戻る見込みがない場合延命不要。私の死後、移植を待つ人向けに私の身体の使える部分があればそれも寄付。
脳死等により私の意識が戻る見込みがない場合延命不要。私の死後、移植を待つ人向けに私の身体の使える部分があればそれも寄付。
終了。
こんな簡単でいいのか?という感じだけど、物とか形式的なことに執着がないから、、。
やっぱり私は生きている間、この瞬間に意志と選択を持てることの方が大事だし喜びだし。だからそれを終える時は「無」でいいのだ。
そして、あわよくばまた生まれ変わって、やはり意志と選択を持って生きられればいいな、と思う。
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関連記事(英語):
これまでおおうにして悲しく辛い出来事、縁起が悪いこと、タブーとされてきた「死」について、もっとポジティブに、いろんな価値観のもと考えようという動きを書いた記事。
イギリスで始まった、気楽に死を語り合う場「デス・カフェ(Death Cafe)」は今や56か国6,500か所以上に広がったそうだ。死を前に友人を呼んでセレブレーションをし、棺桶に皆からのメッセージを集めるなどしたニューヨークの女性のエピソードも。
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